2006年度研究内容

大型類人猿の絶滅回避のための自然・社会環境に関する研究(伊谷原一)
環境省の地球環境研究計画の一環として、2006年度より3年計画で同研究テーマでの研究を推進している。本研究の到達目標は「大型類人猿の絶滅回避」であり、これを達成するための本研究における目的は、「研究地7地域における、地域の実情に根ざした具体的な大型類人猿保護計画の策定と実行、ならびに、国際的な大型類人猿保護の枠組み(UNESCO, UNEP)の保護政策に資する、ボトムアップ型大型類人猿保護の政策提言およびその実現のための施策を提言する」である。本研究対象地域は、大型類人猿が生息しかつ日本人研究者が長期にわたり研究を継続してきた6カ国7地域である:マハレ山塊国立公園・ウガラ地区(タンザニア)、カリンズ森林保護区(ウガンダ)、カフジ・ビエガ国立公園、ルオ特別学術保護区(以上、コンゴ民主共和国)、ムカラバ国立公園(ガボン)、ボッソウ・ニンバ保護区(ギニア)、クタイ国立公園(インドネシア)。
本研究は、以下の5つのサブテーマで構成される(分担代表者・所属・役職)。

  1. 大型類人猿の分布と密度に関する研究(伊谷原一・林原類人猿研究センター・所長)
  2. 地域住民による森林利用の実態と環境変動についての研究(古市剛史・明治学院大学・教授)
  3. 大型類人猿の疾病と人間活動が大型類人猿の健康状態に与える影響についての研究(西田利貞・日本モンキーセンター・所長、竹ノ下祐二・同・リサーチフェロー)
  4. 植林による森林再生と分断化された生息地の再連結についての研究(松沢哲郎・京都大学霊長類研究所・教授(所長)、橋本千絵・同・助手)
  5. エコツーリズムとコミュニティ・コンサベーションによる環境保全の研究(山極寿一・京都大学大学院理学研究科・教授、中村美知夫・同・助手)

遅延自己像の認識 (平田聡・不破紅樹)
明和政子氏(滋賀県立大学)との共同研究。チンパンジーの自己認識能力が、どの程度の時間的広がりをもったものなのかを、ビデオカメラを使用して調べた。チンパンジーの顔周辺をビデオカメラで撮影し、①生でモニターに映す、②遅延時間をはさんだ映像をモニターに映す、③違う時期に録画した自己像や他者像を映すと、条件を変えて提示した。5個体のチンパンジーのうち3個体では、生の自己像および1秒/2秒/4秒の遅延時間をはさんだ自己像に対して、自己認識を示唆する行動が確認された。残り2個体では顕著な反応がなく、明確には結論できない。異なる条件で複数回ずつデータ収集する必要があるため、現在も実験を継続している。

新生児の運動発達 (平田聡・不破紅樹・森村成樹・洲鎌圭子・関根すみれな・楠木希代)
ソニア・ラギール氏(ニューヨーク市立大学)との共同研究。2005年7月に生まれたチンパンジー・ナツキを対象に、自発的な運動の様子を出産直後から定期的にビデオカメラで撮影する。得られたビデオ記録から、チンパンジー新生児の自発的な運動発達を解析し、ヒトで得られている知見と比較した。その結果、自発的運動のなかのライジング運動とフィジティ運動について、ヒトの赤ちゃんとほぼ同じ運動パターンの発達が認められた。ただし、手の動きがヒトに比べて力強く、その反面体幹の動きの滑らかさに欠けるという特徴があった。寝返りや四足歩行の発達、それに続く運動能力の発達はヒトより早かった。

脳波測定 (平田聡・不破紅樹・洲鎌圭子・楠木希代)
ヒトを対象とした脳の研究が進むなか、チンパンジーの脳内活動についてはほとんど明らかにされていない。そこで、覚醒下のチンパンジーを対象に脳波を測定し、認知機能の脳内基盤を明らかにしてヒトのそれと比較することを目的として研究を行った。被験体はミズキである。聴覚誘発反応実験により実験・計測パラダイムの有効性を確認した後、聴覚刺激を提示して、それに対する事象関連電位を調べた。純音を用いたオッドボール課題では、逸脱音に対してミスマッチ陰性電位が確認され、覚醒下のチンパンジーで脳波測定が可能であることが示された。現在、母音、被験体を含めた呼び名、チンパンジーの音声に対する事象関連電位を順次調べて解析を進めているところである。聴覚刺激に対する脳波測定は軌道に乗りつつあるため、次の段階として視覚刺激を提示する課題を試している。なお、本研究は東京大学21世紀COEプロジェクトとの連携でおこなわれている。

子どもチンパンジーをめぐる社会関係 (平田聡・不破紅樹・森村成樹・洲鎌圭子・田代靖子・楠木希代・難波妙子)
チンパンジーの子どもの、母親以外の仲間との社会関係の構築と、それに対する母親の関与について調べた。対象となる子どもチンパンジーはナツキ、その母親はツバキである。一定の条件下で、チンパンジーの行動をビデオカメラで撮影し、ナツキと他個体との個体間距離と、ナツキとの間に生じた社会交渉を記録した。その結果、ナツキは成長するにつれて母親とは別に行動するようになり、母親以外の個体と積極的に交渉をもつようになった。母親のツバキは、ナツキの交渉相手がロイ以外のときは特に何もしなかったが、相手がロイの時にはナツキを自分の方へ呼び戻す行動をとった。子どもの社会交渉に対して、母親が相手に応じて行動を変えることが示された。

子どもチンパンジーによる道具使用の獲得 (平田聡)
道具使用はチンパンジーの特徴的な行動のひとつである。子どもチンパンジー・ナツキを対象に、道具使用行動の学習について観察した。放飼場において、2種類の道具使用場面(ナッツ割り、ハチミツなめ)を設けた。これらの道具使用を、ナツキ以外のチンパンジーは全員おこなうことができる。2つの道具使用場面でのナツキの行動を、月に一度の割合で記録した。ハチミツなめは、ナツキが1歳2か月齢のときに初めて成功した。ナッツ割りはまだ成功しておらず、ナッツを素手で叩くのみである。野生チンパンジーの観察から、ナッツ割りができるようになるのは3歳頃であると予想される。ナツキができるようになるまで観察を続ける予定である。

アラビア数字の系列学習 (平田聡)
1から9までのアラビア数字を序数としてチンパンジーに学習させた。屋外放飼場の実験室にタッチパネルつきコンピュータを設置し、自由にアラビア数字の系列学習ができるようにした。この課題は、モニター画面上にアラビア数字が現れ、それを「1」から小さい順にタッチするというものである。最初は「1」と「2」の2つの数字の順番を覚えるところから始め、学習が進むにしたがって「3」以降の数字を導入するという方法を採った。現時点で、ロイは1から8まで、ジャンバは7まで、ツバキは4まで、ミズキは5まで、ミサキは3まで覚えている。学習が完了したら、記憶法略や行動計画の研究に発展させる予定である。

互恵的利他行動の実験的研究 (平田聡)
チンパンジーの利他的行動に焦点を当て、互恵的利他行動の成立の有無とその要因について実験的に検討する。本研究は、2004年度に予備的観察を開始したものであり、2005年度以降も継続してデータ収集している。屋外放飼場に、チンパンジーがボタンを押せばジュースが供給される装置を設置した。場所Aのボタンを押すと離れた場所Bからジュースが出て、場所Bのボタンを押すと場所Aからジュースが出るという利他的条件を設定し、2個体のチンパンジーが互いに互恵的に振舞うかどうかを観察した。チンパンジーは、初期の段階では、結果的に互恵的に行動するような場合が生じていたが、こうした行動は徐々に減少していった。意図的にコミュニケーションをとって互恵性を維持するのは難しいことが明らかになりつつある。その反面、相手が押すのを待ち構えてジュースを飲もうとする行動が見られており、利己的に他者を利用する戦略は比較的容易に生じている。この場面では互恵的利他行動は成立し難いようなので、実験設定に少し改変を加えることを検討中である。

食物選択行動の種間比較 -カフェテリア実験- (森村成樹)
5品目または10品目の食物を提示し、その好みを調べた。1日に4回同様の手順を繰り返し、採食1回ごとの採食品目数と好みの日内変化を分析した。チンパンジーとマカク類(ニホンザル、アカゲザル)で比較したところ、1回あたりの採食品目数はチンパンジーで有意に少なかった。1日では、両者に差はなかった。このことから、チンパンジーはマカクよりも何を食べるかについてより精密なイメージを持っている可能性が示唆された。マカクの実験は京都大学霊長類研究所の共同利用研究の一環で実施された。

チンパンジーにおける食物の位置表象の理解 -食物指さし選択実験- (森村成樹)
食物選択場面での位置表象の理解について調べた。5つの穴に対応するように食物5品目を配置し、チンパンジーは穴を通して指さし、その食物を食べることができた。この条件に十分馴らした。その後、穴の位置と食物の位置をずらして選択させたところ、穴と食物の位置関係を保持して指さしをし、最初から食物を選択することができた。ずらしたことで、穴の下に食物がなく、他の穴の下に元の穴に対応する食物がある条件でも、食物と対応関係にある穴を指さすことができた。

非侵襲的試料を用いたボノボの遺伝学的実験 -個体識別への応用- (田代靖子・伊谷原一)
橋本千絵氏(京都大学霊長類研究所)との共同研究。1973年から長期調査が行われていたコンゴ民主共和国ワンバ森林のボノボ個体群を対象とし、非侵襲的に収集したDNA試料(糞、尿、毛など)を用いて分析を行った。内戦による調査中断で個体間の血縁関係がわからなくなっているが、ミトコンドリアDNAのd-loop領域を配列決定し、母親候補の配列と比較することによって、一部個体の名前が特定できた。残りの個体については、分析を継続中である。この研究は京都大学霊長類研究所の共同利用研究の一環で実施された。

チンパンジーの体力テスト-垂直跳び-(不破紅樹・洲鎌圭子・平田聡・楠木希代)
チンパンジーの体力測定方法の確立と基礎体力を明らかにすることを目的に、第一段階として瞬発筋力を測定する垂直跳びテストをおこなった。テストは、サージャント・ジャンプ・メーター方式を応用して実施した。テストを繰り返す過程において、各個体の測定値が安定したことから、本テストがチンパンジー体力テストの一項目として有効な手段であると判断された。今後は測定結果から、性・年齢・体格差を含めた詳細な分析を進める。

形態計測(不破紅樹・洲鎌圭子・平田聡・楠木希代)
身体発達という生理的現象の正しい把握をするため、チンパンジー各個体について、長育、量育、幅育、周育、歯の発育に関する身体の代表的な部位を計35項目、毎月3回計測した。今後は、臓器や骨の発育、身体組成の変化の測定を検討するとともに、計測で得られた結果の詳細な分析を進める。

チンパンジーの掻痒症と爪の長さの関係(洲鎌圭子・不破紅樹・楠木希代)
2005年1月および3月に著しい爪長の短縮と皮疹をともなう掻痒症が発生したため、掻痒症指標としての爪長の変化について検討した。週1回の爪長の測定により、掻痒の発生にともなう著しい短縮が確認された。また、抗ヒスタミン剤および保湿剤の投与により、状態の改善と爪の増長傾向が認められ、掻痒症は治癒した。爪の長さの変化は、掻痒の有無を早期に発見する良い指標となりうるが、爪の伸長速度が1日あたり約0.15mmとわずかであることから、回復傾向を確認するには1から2週間を要した。2006年度冬季にも痒みをともなう爪長の短縮がみられているが、早期の処置により症状は改善している。痒みの症状にもいくつか異なるものがあり、冬季の乾燥によるものや発疹をともなうもの、全身性のものや一部に限局するものなどが認められている。このため、爪の磨耗状態と皮膚の状態の関連について詳細に調べていく予定である。また、爪上皮と爪甲境界部に傷をつけてその伸長速度を測定することにより、爪の正常な状態の把握もおこなっていく。

精液の性状検査(洲鎌圭子)
GARIの2頭のオスチンパンジーでは、ロイで5歳11ヶ月、ジャンバでは7歳5ヶ月齢で初めて射精がみとめられた。射精開始から精液検査を継続しているが、11歳に達した現在も量や生存率・運動率といった性状は安定していない。その原因の1つとして、同居メスとの頻繁な交尾が考えられるが、9歳頃から頭部異常精子が目立っており、寒暑ストレスや環境ホルモンの影響も予想された。今年度は寒暑ストレスの影響を調べるため、睾丸の表面温度と精液性状の関係について、各個体月2回の予備試験を実施した。その結果、ロイよりジャンバにおいて異常精子が多くみられた。睾丸表面温度は年間を通じてロイで約1℃高かったが、異常精子は季節に関わらず発生した。異常精子は形態により発生率が異なるため、今後、気温・睾丸表面温度・メスの発情周期などの要因と各異常精子の発生の関係について調べていく予定である。