チンパンジーえにっきイメージ

岡山県玉野市にあった類人猿研究センター(GARI)で研究のパートナーとして暮らしていたチンパンジー8人。
彼らのようすを、写真を添えてつづってきた2004年8月から2013年3月までの「えにっき」の記録です。

2013.2.18「最後のトレーニング」

2013年1月21日にロイ、ジャンバ、ツバキ、ナツキの4人が、1月24日にミズキ、ミサキ、ハツカ、イロハの4人がついに類人猿研究センター(通称GARI)から京都大学野生動物研究センター熊本サンクチュアリに旅立ちました。
遅ればせながら、彼らとの最後のかかわりようすをお伝えしていきたいと思います。

だれもいなくなった放飼場

「類人猿研究センターは閉鎖、これに伴いチンパンジーは熊本に移動する」
このことが決まってから、私たちスタッフは複雑な思いを抱えながら過ごしてきました。 でも、どんなにつらい気持ちになろうと、複雑な思いになろうと、チンパンジーのみんなには関係ない。最後まで一生懸命、本気でつきあっていこうと決めていました。

彼らは微妙な変化を敏感に察します。こちらの気持ちを隠そうとどんなにがんばったところで、私たちが抱える複雑な思いに気づいている…。
特に勘の鋭いアルファオスのロイは、その頃からスタッフに対する不満をあらわしたようなディスプレイが増え、明らかに何かを察しているようでした。
そう感じてからは、気持ちを隠すことなく「1月にはお別れだよ。楽しく過ごしてもケンカして過ごしてもお別れは来る。あと少しなんだから仲良くしよう!」と言葉に出してつきあってきました。

(下写真:毎日スキンシップをとる不破さんとロイ)

不破さんとロイ

「人の言葉を話さないチンパンジーに、気持ちを隠さず言葉に出すことに意味があるの?」と不思議に思われるかもしれません。
"言葉に出すこと"は、チンパンジーのみんなに伝えると同時に、自分に対しての再確認かもしれません。
でも、自分の気持ちを「隠して付き合うこと」と「隠さずつきあうこと」の違いは、はっっきりと彼らとの付き合いの中で結果となって表れる。これは、私が身をもって体験してきたことのひとつです。
チンパンジーにはすべてお見通し。彼らと付き合ううえで嘘はつけないのです。

14年前、子どもばかりのチンパンジーが私たちの研究パートナーになるため、ここ岡山にきてくれました。人に慣れていない彼らとできる限り一緒に過ごし、研究パートナーとしての信頼関係を少しずつ築いてきました。

(下写真:GARIに来たばかりの頃のチンパンジーのみんなと不破さん)

来たばかりのみんな不破さんとみんな

チンパンジーは、攻撃的な反面とても臆病な動物です。
新しい環境、新しい部屋、新しい実験道具、新しいスタッフ。人の世界ではなんでもないことでも、そのひとつひとつがチンパンジーにとっては一大事で「こわいもの」だったり「さわれないもの」だったり、「近づけないもの」だったりします。

たとえば、健康管理のために毎日おこなっている体重測定や検温も、はじめは体重計や体温計が"こわい"。そんなこわい物の上に乗ったり、そんな物をお尻に入れたり、脇にはさんだりするなんて…。イヤイヤイヤ!という感じです。すぐに慣れるかなかなか慣れないか、もちろん個人差はありますが、少し体重計に乗れたらほめる、少し体温計を脇にはさめたらほめる、というように少しずつ繰り返しトレーニングをしながら、ひとつひとつクリアし、何度も繰り返し慣らすことで初めてひとつのことができるようになります。

トレーニングの過程で、どの程度までなら嫌がらずできるか、嫌になる前にどのタイミングで良しとするか、そのトレーニングがうまくいくかいかないかは、それをおこなうスタッフのセンスにかかっているといってもよいかもしれません。
いったん「イヤ!」という意識を持たせてしまうと、そこからできるようになるまで取り戻すのにとてつもない時間がかかってしまうこともあります。

(下写真: (左)幼い頃の注射トレーニングのようす、 (右)大人になっても、新しい体重計に変わるとなかなか乗れないジャンバ)

昔の注射トレーニングのようす新しい体重計になかなか乗れないジャンバ

GARIでの14年間のチンパンジーとスタッフのかかわりの中で、私が立ち会ってきたのは9年間。その間、さまざまなトレーニングの場面を間近で見たり、実際に自分で経験したりしてきました。

例えば2005年、ツバキが妊娠をした時、チンパンジーでは世界で初めて胎児の身体や行動発達のようすを超音波画像診断装置(4Dエコー)で観察することに成功しました。人の妊婦さんでは、4Dエコーは今あたり前におこなわれています。
では、チンパンジーではどうして難しいのでしょうか?

胎児のようすを観察するためにおこなったトレーニングは次のようなものです。

1、実験室に4Dエコーの機械を設置し、見慣れない機械に慣らすこと。
2、機械の電源が入ると動作音がするので、その音に慣らすこと。
3、実験ブース外でオペレーターが機械の操作をすることに慣らすこと。
4、「プローブ」という直接おなかに当てる機械を見せて慣らすこと。
5、プローブを実際におなかに当てること。
6、実際に観察するためには、プローブにジェルを塗らなくてはきれいに見えないので、ジェルがおなかについても嫌がらないようにすること。
7、毛があるときれいに見えないので、おなかの毛をカミソリでそれるようにすること。
8、プローブをおなかに当てて胎児のようすを観察する間、横になってじっとしていられるようにすること。

人の世界で考えると大したことはないように思えますが、チンパンジーではそう簡単にはいきません。
実験室に大きなエコーの機械を設置しただけで、「ワオワオ!ワオワオ!」と何分も警戒して叫び続ける子がいたり、こわくて部屋に入れず帰ってしまう子がいたり、さまざまでした。何日かかけてやっと機械に慣れても、プローブを体に当てること、おなかにべとっとしたジェルを塗られること、カミソリでジョリっとそられること、すべてが初めての経験で、こわくて嫌なことのようでした。
それを毎日少しずつ慣らし、少しできたらほめ、ツバキの場合は、約一ヶ月後にようやくはじめて胎児のようすを観察することができました。

(下写真:(左)プローブを当てる(右)4Dエコーで胎児を観察するようす)

プローブを当てる

そんなふうに地道なトレーニングを繰り返して、これまで聴診器を胸に当てて測る心拍測定や心電計による測定、レントゲン、採血、筋肉注射、投薬、など健康管理にかかわること、また、形態計測、脳波測定、視線を検出するアイトラッカーを用いた実験など、さまざまな器具・機械を用いた実験が可能になりました。

 

2012年12月21日。
いよいよGARIでの最後のトレーニングがはじまりました。
それは、「チンパンジー8人をGARIから運び出すためのトレーニング」です。

危険な動物でもあるチンパンジーを移動させる際には、基本的にはひとりずつ、100kg以上もある頑丈なオリに入れ、トラックに積んで移動先まで運びます。「オリに入れる」ためには、チンパンジーに麻酔をかけ、眠ったところでオリに入れて運び出すのが一般的です。
オリに入れるためだけに全身麻酔。ジャンバは過去、麻酔時に痙攣が起きたことがあるし、ナツキとイロハにとってははじめての麻酔。万が一、麻酔薬が体に合わない子がいたら…など、いろんな"最悪の状況"も想定しました。

(下写真:オリの扉を音を立てずに閉める練習をする)

オリのようす

チンパンジーに麻酔をかけるためには、吹き矢がよく使われます。でも、GARIではチンパンジーとスタッフが信頼関係を築いてきました。彼らにできるだけこわい思いをさせないため、これまで麻酔の際には事前に針を刺す注射のトレーニングをおこない、本番は麻酔薬を注射して麻酔をかけてきました。今回も同様に注射のトレーニングをおこない、最後まで対面をして、目の前で麻酔の注射を打つことにしました。

まずは、実験室の隅に注射器がたくさんおいてあるだけ、次に注射の針刺しの練習、次に麻酔薬の代わりに生理食塩水を入れて実際に注射する練習…というように段階をふんでトレーニングをしました。
この重要な仕事はGARI設立時からずっとチンパンジーとかかわり一番の信頼関係を築いてきた不破さんの仕事でした。
注射はチンパンジーにとって負荷のかかるトレーニングです。嫌がって不破さんを噛む可能性もないとは言えません。毎日のように「本番は、だますぞ~。麻酔薬を入れるからな。気持ちよく眠れるからな~。」と隠さず不破さんがみんなに伝えるようす、注射針をしきりに気にする子の腕に注射針を刺す緊張感。何が起きるかわからない事態を想定して、全力でサポートできるようもちろん私も毎回気を張ってそばで立ち会っていてましたが、私よりもずっと長く彼らとかかわってきて、この先もずっとかかわりたいという思いを持ちながら、自分の手でみんなを眠らせなければいけない不破さんの気持ちや緊張感を考えると、たとえようもない気持ちになりました。

また、今回は健康診断や手術のための麻酔とは大きく違うことがあります。
ひとりずつ実験室に呼びいれ、麻酔注射をし、眠ったらすぐに運び出してオリ入れなければいけません。 チンパンジーはとても敏感な動物。環境の異変に気付くと、注射をされることを受け入れるどころか、実験室にも入って来ない可能性があります。

このため、まずAという部屋にチンパンジー全員で入り、ひとりずつBという実験室に入って注射の練習などをし、Cという場所を通ってDという場所に移動する、ひとりが終わったら次の子がAからBに入って注射の練習などをし、Cを通ってDに移動して合流する、また次の子、また次の子、というように誘導のトレーニングを綿密におこなうことにしました。

(下写真:「A」という部屋からひとりずつ呼び出す)

居室から

(下写真:「シュート」というチンパンジーの通路を通って移動する)

シュートを通るロイ

(下写真:「B」という実験室でトレーニングをする)

馴致室でトレーニング

(下写真:「C」という場所を通って移動する)

二放を通る

(下写真:「D」という場所でみんなが合流する)

行動側シュート

このABCD間を移動する誘導トレーニングは、これまでやってこなかったことです。ただ"移動する"というだけのトレーニングでしたが、初日は「キャーキャー!ハッハッ!」みんな大パニックでした。
"普段と違う"というだけで緊張して落ち着かなくなるのも彼らの特徴です。

綿密に誘導のトレーニングをおこなうのは、こんな作戦があるからです。
全員で待つAの部屋から、察しのいいアルファオスのロイから順に実験室に呼びます。ABCDと移動するようすは、Aで待っている他の子たちには、"物音は聞こえるけど実際に目では確認できない"位置関係にあります。

移動日の本番では、B実験室で本物の麻酔注射が打たれ眠った時点でひとりずつ運び出されていなくなります。次の子は、練習と同じABCDの順路でトレーニングが終われば皆と合流できると思ってB実験室に入ってくるようにするのです。
彼らに不信感を抱かせないため、何日も何日もかけて同じトレーニングを繰り返し、悪い言い方をすれば私たちが彼らを"だます"。これまで、嘘をつかずにつきあってきたみんなに、最後は嘘をついてだまさなければなりませんでした。
GARI最後のトレーニングは、成功しても喜ぶことができない、でも確実に失敗は許されないこれまでの中でもっともつらいトレーニングとなりました。

誘導のトレーニングをしていても、すべて彼らをだます伏線と考えると正直つらくてしかたありませんでした。8人は、もうすぐ本番の日が来るということも、麻酔から目覚めたら小さなオリに入れられていることも、ここを離れてトラックに揺られどこか別の場所に行くことも、今いるスタッフと別れることも何ひとつ知らないのです。

いつも同じ場所に同じものがあり、同じ物音がする環境があり、同じ仲間がいて、同じ人がいることが安心する彼らの、移動中やこの先しばらくのことを考えると、毎日重い気持ちになりました。

(下写真:野外運動場のいつもの場所でのんびりお昼寝する女の子たち)

一放でのんびりする女の子たち

2013年1月19日。
ロイ、ジャンバ、ツバキ、ナツキとのお別れまであと2日。
どんどんと別れの日が近づいてきました。

(つづく)

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